TASTE あじわう

秋が深くなると歯が散ることの裏に潜んでいたエゴみいつけた

紅葉

こんにちは、現役の科学者兼セラピストの絶學無憂(ぜつがく・むゆう)でございます。

 

夏にかけて本業のほうが忙しく、自分のブログも更新できずにおり、こちらも間隔が空いてしまいました。私は英国におりますが、地球の向こう側の、Universoundでは ayanoさんが「無憂さんが書いてくれないけどどうしよう」と困り果てている、というのを風の噂で聞きまして、急遽、なんか書くべしと思ってやって来ました。ayanoさんを泣かすわけにはいかねぇ。

 

2018年にブレイン・アップデート・オンラインコーチングを受けて、すっかり内面が変わってしまったのですが、その後に持ち越されたテーマというのは、主にふたつ、本業の仕事での成功と、もうひとつは、家庭崩壊の発端ともなった、歯周病です。当時一番問題だったはずの、崩壊した家庭のほうは、私のほうが勝手に元気になってあまり気にしなくなったら徐々に回復してきました(笑)。

 

自分のブログでも度々書いてますが、この歯周病はさんざんこれのためにお金も使い、エネルギーも使い、家庭崩壊まで起こしながらも結局、セラピーも効かず、治療法も見つからず、最後の最後は ayanoさんのチャネリングで自分のハイヤーセルフに相談し「歯の次は髪の毛かもしれませんよ」という殺し文句でようやく諦めが付きました(笑)我がハイヤーセルフながら、これは名文句じゃ、あっぱれ。

 

 

ハゲにリンス

 

 

何でなんでしょうね、無性に「歯が抜けたら終わりだ」みたいな観念を握りしめていたようです。

 

私はフサフサなのですが、実際に歯がどんどん抜けている途中です。自分がそうなってから、同年代の男性の薄くなった頭髪を見るときに、今では「ああ、そうか、たしかに見てくれは違うかもしれないけど、歯が抜けるのも、髪の毛が抜けるのも本質的にはあんまり変わんないな」って思えるようになってきましたw

 

そう、今にして思うのは、「歯が抜ける」ということに必死で抵抗していた自分は、歯=つまり肉体の一部=私という存在の一部、っていう風に捉えていたんだと思います。

 

肉体=自分という存在だ、という例の、極めて一般的な考え方ですね。

 

ここでいう自分を、エゴという言葉に置き換えると非常に分かりやすい気がしました。

 

歯=肉体の一部=エゴの一部

 

となると、歯が抜ける=エゴの一部が失われる、っていうことになります。これにずっと怯えていたのではないでしょうか。

 

頭では、私という存在は目に見えるだけではない、たとえばハイヤーセルフのようなところまで広がっているのだ、なんてとっくに分かっているつもりでしたが、しっかりと、世俗的な、唯物論的な肉体観がまだ残っていて、それがエゴの抱えている存在への不安を思いっきり刺激していたのでしょう。

 

 

andromeda

 

本来、宇宙には意識は一個しかないと言われています。言われていますというのは、バシャールがそう言っているのです。

 

そのワンネス、The One がどんどん分裂したり形を変えたりして、宇宙が、そして我々も、作られているということです。

 

そういう意味では独立した個人、というのは幻想だと言われます。我々の表層意識が、宇宙との繋がりを感知できないことによって、ヴァーチャルに、「一人ひとりが独立した意識を持った存在だ」という疑似体験をしているというわけですね。

 

ここでいうエゴというのは、この分離独立した「私」の意識ですが、以上のような成り立ちからすると、これはそもそもハッタリに過ぎないということになります。本当は全部つながっているんだけど、それがバレてしまうとあまり人生ドラマを体験できないので、バラバラっていうことにしておこう、というハッタリです。

 

ハッタリであるがゆえに、分離意識のエゴというのは、常に自分が消えて無くなってしまうのでは、という根源的な存在の不安を抱えている。それがいわゆる死の恐怖でもあります。

 

私が、歯が抜けることに必死に抵抗していたその裏には、分離意識のエゴの一部が失われ、死に近づくことへの恐怖があったんだな、って思います。

 

村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の中で、ハゲに対しては、死へ一歩近づくことの恐怖として男性はこれを忌避するのではないかと、若干16歳の笠原メイがまさに深淵な考察を表明しており、「まさに同感!」と思った次第です。というかこれを読んだのがこの記事のきっかけです。

 

肉体に対する煩悩、執着、といってもよいです。病に限らず、たとえば容姿に関わる悩みなども、これの親戚かもしれませんね。

 

 

 

この問題、難しいのは、じゃあ歯が悪い人はみんな治療を諦めて抜けばいいのか、っていうと、もちろんそうとも言えないからです。難病や重い病を抱えて、それでも諦めずに手を尽くした結果、奇跡の回復を見た、というエピソードもよく耳にしますから、そういうケースもある。病の持つ意味は一概には言えない、っていう気がしますね。

 

 

しかしやはり、自分が渦中にいると、どこに執着していてそのために引っ掛かっているのか、っていうのがなかなか見えないものだなあと改めて思った次第です。

 

この話、味覚はあんまり関係ないのですが、口つながりということで、「味わう」コーナーに投稿させていただきます。茸の炊き込みご飯が食べたいです。

 

それではまた~